日光街道を歩く 第1回・日本橋〜粕壁宿<その1>
開催日:令和2年1月31日(金)〜2月2日(日)
昨年の12月に甲州街道を下諏訪から日本橋までめでたく完歩できまして(祝)、引き続きのノリで(笑)日光街道を歩くことにしました☆
今回は日本橋から粕壁宿までです。
何はともあれ、3日間とも天気が良くて何よりでした。
さて日光街道ですが、呼び方に変遷がありまして、最初は日光海道といわれ、後に海端の道ではないとの理由から日光道中と呼ばれるようになり、明治になって日光街道と改名されました。明治政府、幕府に張り合い過ぎじゃね?とも思ったりしますが、一応私も明治政府に合わせておきます(苦笑)。
また江戸時代は3泊4日で日光まで行けたらしいです。どうやって徒歩で行くんかと思いますが、昔の人の足はほんますごいよね〜。
日光街道は松尾芭蕉の「奥の細道」ルートにもかぶってまして、芭蕉関連のものも結構ありました。が、道自体が江戸時代にできたもので比較的新しいので、中山道とかに比べるとあまり道中に見どころがない(涙)。しかも関東平野なんで道が平坦。これはね・・・実に眠くなります。

ということで、先月も来た日本橋からスタートです。
ずっとここがゴールやったから、ここからスタートってのが何か変な感じ。

日本橋のたもとにある日本橋魚河岸跡です。
日本国道路元標の向かいですね。関東大震災後に築地に移っています。今は豊洲ですね。

中山道側の道を行きます。三越本店が懐かしい・・・相変わらず大きいわー。
途中で右折して中山道とは分かれます。

江戸伝馬町牢屋敷跡です。現在は十思公園として整備されています。
写真は公園奥にある松陰先生終焉之地碑です。
以前スタンプラリーでここに来たことがあって特に目新しいものはなかったんですが、ここでウォーキングリーダーさんが松陰先生の辞世の句を吟じて下さいまして、和歌も吟じるんやと初めて知りました。
松陰先生の辞世の句はこちら。
「身はたとひ 武蔵の野邊に朽ちぬとも とどめおかまし 大和だましい」
いやでもこんな形で吟じてくれて、きっと松陰先生も喜んでるんちゃうかな〜。

向かいの大楽寺が江戸伝馬町処刑場跡でした。
うーん、やっぱりねー、どうも雰囲気が微妙なんですよね・・・。

さらに進みます。
スカイツリーが正面に見えます。この街道、スカイツリー出現率高いです。

浅草橋を渡ります。

この川は神田川です。歌にもありますけど、現物こんなんかーって思いました。何やごちゃごちゃしたカンジですね。屋形船が結構並んでます。

そして浅草見附跡です。ちなみに見附とは見張り所のことです。
ここに築かれた江戸城外の城門は「浅草御門」と呼ばれたらしいです。

駒形どぜうです。昔っぽいなーと思って見てましたが、実際創業享和元年(1801)のどじょう料理の老舗でした。文化3年(1806)の大火後にそれまでの「どぢやう」の4文字では縁起が悪いということで「どぜう」の3文字に改称したそうです。
どじょう料理と言えば島根の安来が有名ですけど、お江戸にもあるんですね〜。値段高そうですけどね、どうでしょう。

しかし東京スカイツリーが本当に良く見えます。

浅草寺駒形堂です。
浅草寺自体は行きますけど、ここまではよっぽどでないと来ないですね。さすがにがらんとしてました。
浅草寺ご本尊の聖観世音菩薩さまが隅田川よりご示現され、初めて奉安された地に建つお堂です。
実は結構重要ですよね。
現在はここのお堂のご本尊は馬頭観音さまとのことです。

で、こちらは境内にある浅草観音戒殺碑です。
この地が聖観世音菩薩さまが隅田川より発見された霊地であることから、元禄5年(1692)、当地を魚鳥殺生禁断の地とする法度が出され、それを記念して翌年に戒殺碑が建てられたそうです。
現在の碑は昭和2年(1927)に土中より発見され、昭和8年に修補されたものとのことです。まーでもかなり痛々しい感じです。

そして浅草寺です。もうかれこれ20年ぶりでしょうかね〜。
コロナウィルスのせいで観光客少ないと思いきや、「めっちゃ人おるやん!」
チャイニーズも相当いてたし、あと修学旅行生も多かった。
なんで、本堂のお詣りは諦めたわ。人多すぎて。でもこれコロナ無かったら仲見世なんて歩けないんちゃうやろか・・・。

でも境内もちょっと端の方に行くと空いてんだよね。
こちらは旧仁王門礎石です。いや〜これ見るだけで、どんだけ大きいんやろうって思いますけどね。
慶安2年(1649)に旧本堂と共に三代将軍徳川家光公により再建落慶した旧仁王門は300年間浅草寺の山門としてありましたが、昭和20年(1945)の東京大空襲により焼失してしまいました。ホント残念でなりません。

そして旧五重塔跡です。こちらも慶安元年(1648)に徳川家光が再建されたもので、現在の五重塔とは反対側に建てられていました。
江戸時代には上野の寛永寺、谷中の天王寺、芝の増上寺の塔とともに「江戸四塔」として親しまれていたそうです。
こちらも昭和20年(1945)の戦災で焼失しております。

ま、そんな訳で浅草寺のお詣りは諦めたんですけど、近くに浅草神社がありまして、こちらはなぜか閑散としてましたのでお詣りさせていただきました。
写真は本殿です。社殿は慶安2年(1649)に徳川家光により再建されたもので、江戸時代初期の代表的権現造として評価が高く、国の重要文化財に指定されているとのことです。

さらに進みまして、待乳山聖天です。浅草寺の支院の1つとは後で知りました。
商売繁盛、夫婦和合にご利益があり、「聖天は娘の拝む神でなし」といわれたそうです。
ま、でも訪れたとき先客の若い女性が拝んでたんで、今はいいのか、な?

こちら本堂ですけど、上の大根の装飾が何だかあやしい・・・さすが夫婦和合。

えー、さらに進みまして、こちらは今戸神社にある沖田総司終焉之地碑です。
幕末はここに御典医松本良順が居住していて沖田総司の看病をしていたそうです。
いやー、これは知らなかったわー(驚)。お墓には行ったことありますけど、終焉之地がこことは・・・。

泪橋です。
この先に小塚原刑場があるんですが、そこに引き立てられる罪人と身内の者がここで泪の別れをしたことからこの名がついているそうです。
そしてここから荒川区に入ります。

素盞雄神社です。
小塚原・三の輪・下谷通新町・三河島・町屋など最も広い地域を氏子圏とする鎮守で「てんのうさま」とも呼ばれています。
丁度小学生の下校時間やったようで、元気に小学生たちがこの境内の中に走って行きました。

こちらは本殿です。
実はここ千住なんですけど、松尾芭蕉の奥の細道では最初深川を出て、舟で千住に着いたそうです。ですが、その着いた場所が千住の大橋手前の南詰か向こうの北詰かで論争があるらしいです。矢立初めの地として、どっちも譲れないところだそうですよ。

中央にある絵馬が掛かっている大木が天王社の大銀杏です。
この木の皮を煎じて飲むと乳の出が良くなるという伝承があるらしいです。

いよいよ千住大橋です。
千住大橋は文禄3年(1594)に徳川家康が江戸に入った後、隅田川に初めて架けた橋とのことです。

現在の橋は関東大震災後に架けられたものですが、めっちゃデカい橋ですね〜。

橋の北側にはおくのほそ道旅立ちの地の絵が描かれています。
橋を渡った先には奥の細道矢立初めの地の碑もあります。
また葛飾北斎の富嶽三十六景で千住地域を題材にした作品が3枚ありまして、その中の1枚「従千住花街眺望ノ不二」がこの辺りを画題の対象地としているそうです。(他の2枚は「武州千住」と「隅田川関屋の里」)

やっと千住宿に入ってきました。日光街道初宿ですよ〜。
松尾芭蕉の像もあります。

こんな問屋の看板があちこちに立っています。
こちらは千住葱ですね〜。

こちらは青物問屋とあります。
ここら辺は閑静な住宅街といった感じ。

ここにも芭蕉さんがいらっしゃいます。

一里塚跡です。
この一里塚は町の中にあったため、一対ではなく片側だけでした。
今回のウォークで初めて一里塚跡碑を見ましたねー。
ここから先は商店街に入ります。賑やかな通りで、本陣などもこの区画内にあるんですけど、なんかよく分からなかったです。もっと注意深く見たら見つけられたと思うけど、疲れてくると散漫になってしまって駄目ですね・・・(汗)。

で、こちらが1日めのゴール地点のホテルです。商店街の中にあり、北千住駅にもすぐ近くという立地条件抜群に良いホテルでした。内装も綺麗で私的にはすごく良かったです。
が、この日の夜中2時頃、千葉で震度4の地震があって、見事に起こされました。(しかもスマホの爆音で(泣))こちらは震度3くらいかな。横揺れがゆらーっと来てました。気持ち悪い感じ。まだまだ関東は落ち着きませんね。でも特に大きく何も無くて良かったです。
(その2に続きます。)