2020年12月15日

本「風神雷神 Juppiter,Aeolus」下

「風神雷神 Juppiter,Aeolus」下
 著者 :原田 マハ
 発行日:2019年11月12日
 発行所:株式会社 PHP研究所

コロナ禍から全然旅に行けてないしgotoも全く使ってないまま、1年が過ぎようとしています・・・。
その割に収束の気配が無い(泣)。

本題です。
前回上巻を読んでから大分時間があきましたけど、今回ようやく下巻を読むことができました。
上巻の世界観の下地があるから、下巻は違和感なくすっと読めました。
一気読み☆

下巻は遣欧使節がゴアに到着してヴァリニャーノとの別れから始まり、ポルトガル、スペイン、イタリアを回り、無事にローマ教皇に謁見し、宗達が持参した洛中洛外図屏風も渡すことができ、イタリアの都市を回って、宗達はミラノでの工房の弟子のカラヴァッジョに会い、お互いの絵を贈り合いして日本への帰途に着く、という話です。

エピローグは別にいらないかな・・・。本編だけで雄大な冒険をした気分になれます。遣欧使節の4人の少年と宗達の絆もこの旅で深くなって、それぞれの成長も感じられて読み応えあります。
私はキリスト教には詳しくないんで、原マルティノたちの気分は良く分からないところもあるけど、そこは信者ではない宗達がいてくれているんで、置いてけぼりにならなかったので、なお良かったです。
posted by 花衣 悠希 at 17:04| Comment(0) | 本・雑誌等 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年10月24日

本「流人道中記」上

「流人道中記」上
 著者 :浅田 次郎
 発行日:2020年3月10日
 発行所:株式会社 中央公論新社

図書館で予約してたのが、この度ようやく順番が回ってきたので読みました。
下巻はまだまだ先になりそう・・・。

姦通の罪を犯したという旗本の青山玄蕃が、切腹は痛いから嫌だと拒んだことから蝦夷松前藩への流罪となり、押送人となった見習与力の石川乙次郎と一緒に奥州街道を北へ旅する、というお話です。上巻は仙台まで。

私も奥州街道、今年の初めに少しだけ歩きましたので(日本橋から粕壁宿まで)、ちょっと懐かしい感じがしたのと、このウォークはコロナで頓挫してしまったので、続きもまたコロナが落ち着いたら歩きたいなあと思いました。今GOTOとかありますけど、私的にはまだ時期尚早かなと思ってますんで。

話は時代が幕末っていうのがあるんで、それだけで不安定感満開なんですけど、とにかく青山玄蕃の素性がナゾなのが面白い。
そして、世馴れたお坊ちゃんに振り回される超絶堅物な乙次郎頑張れってカンジ。もう感想がおばさんよね(苦笑)。
いや〜、だって19歳でしょ、まだまだ若い。これからこれから。
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2020年07月25日

本「風神雷神 Juppiter,Aeolus」上

「風神雷神 Juppiter,Aeolus」上
 著者 :原田 マハ
 発行日:2019年11月12日
 発行所:株式会社 PHP研究所

コロナで旅行も行けなくなって、
(いや厳密には行けるんだろうけど、この感じでは超行きにくい(苦笑)。)
全然ブログネタもなかったんですけど、今回久々の投稿です。
ようやく図書館も開館して本を借りることができました。ホント嬉しいです☆

さてこの本です。
絵師、俵屋宗達が若き日に織田信長に認められ、天正遣欧少年使節の伊東マンショ、千々石ミゲル、原マルティノ、中浦ジュリアンと共にローマに向かう、という話です。

いや〜、面白かったです。
上巻ではまだローマに着いてませんけど、
宗達が織田信長の前で杉戸に象の絵を描く、とか
(今養源院にあるヤツですよね!)
狩野永徳と一緒に洛中洛外図屏風を仕上げる、とか
めっちゃ読んでてわくわくしました。

私は障壁画を見るのが好きで、(詳しくはないけど)
永徳も好きやし、宗達も好きやし、
こんなカンジやったんかなーって面白かった。

実はこの本に関連しての講演会が京博で2月にあったんやけど、
丁度コロナが出だした頃で、泣く泣くキャンセルしたのが、
今更ながらすっごく残念に思いました。
posted by 花衣 悠希 at 18:57| Comment(0) | 本・雑誌等 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年02月23日

熊野古道 中辺路を語り部と歩く 第13回・牛馬童子口〜小広王子

熊野古道 中辺路を語り部と歩く 第13回・牛馬童子口〜小広王子

開催日:2020年2月16日(日)

熊野古道を昨年から歩いておりますが、今回はウォーク中ずーっと雨(しかも結構雨足キツイ)やったんで、全く写真が撮れませんでした(泣)。
ちょっと無理するとカメラの方をやってしまいそうだったんで、断腸の思いで諦めました。くぅぅ。
6年前も同じところを歩いてまして、しかもその時はとーっても良い天気やったようなんで、写真はそちらで見ていただきましょう!
今回はとにかく道が川のようになってましたね。まあ、そんなに寒くなかったのが救いかなあ。
聞くところによるとコロナが和歌山に出た!というニュースが出た瞬間、ピタッと外人さん来なくなったらしいです。
今は熊野古道歩く人って、ほとんど外人さんなんですって。へー。
ということで、今回は画像がないので文字のみで行きます!

前回のゴール地点、道の駅中辺路からスタートしまして、まずは牛馬王子。そして牛馬童子像。
実は本物は大きさが小さいという3大ガッカリならぬ4大ガッカリです。この像、昔盗難にあってまだ犯人が捕まっていないらしいです(汗)。

そして近露王子跡。大きな石碑がありますが、戦争の供出を免れた唯一の碑なんだそう。先人たちの苦労が偲ばれます。

さらに野長瀬さんと横矢さんのみのお寺ってのもあります。
近くに近野小学校がありますが、この名は近露と野中の集落の子供たちが通うので近野となったんだとか。結構単純です。

もう雨音が強くてガイドさんの声が聞きにくいし、何か疲れて最後の方は聞くのも適当な感じになってました。(ホントすいません。)
あんまり道が大変とかは無かったんやけど、雨で滑りやすいのとぬかるんでるのとで、変に体力使うよね・・・。

さらに進んで、紀州藩が作った一里塚ってのもあります。

野中の清水は前回も来たなーっていう記憶がありました。赤い欄干が印象的。

で、秀衡桜。
この桜のそばにある句碑3つのうち、真ん中が高浜虚子、右手が高浜虚子の娘さん、左手が高浜虚子のお孫さん(娘さんの兄の子)のものだそうで、3代並ぶのも珍しいですね。

さらに進むと、安倍晴明とめ石というのがあります。
花山天皇が熊野詣をした時に、この辺りの崖が崩れそうやったので、安倍晴明を呼んでこの石で崖崩れを抑えたという話があって、今も霊力があるらしいです。見た目は普通の石ですけどね。

そしてゴール地点の小広王子(番号は40番)。
いやー今回は頑張りました!
で、ウォーク終了後また道の駅に戻ったら雨が止んでるの!何てこったい。
ということで、悔しいのでここだけ写真を撮りましたよ!!

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これがその写真。最後にスタート地点の写真を撮る悲しさよ。

ちなみに、この道の駅で売ってる梅干しはシンプルに塩と紫蘇で漬けてあって、めっちゃ美味しいです♡
自分的にはめはりはあんまりやったけど、きな粉とあんこのおはぎは美味しくてオススメです。
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2020年02月15日

日光街道を歩く 第1回・日本橋〜粕壁宿<その4>

(その3からの続きです。)

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3日めは、2日めのゴール地点、北越谷駅からのスタートです。

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朝9時前なんで、道も清々しいカンジ。

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宮内庁埼玉鴨場です。国内に2ヶ所ある宮内庁の鴨場の1つで、明治37年(1904)に皇室用の遊猟場として建設されたものとのことです。東京ドーム2.5個分の広さがあるらしいですよ〜。
ここ、完全に扉が閉まってると思いきや押したら開いちゃって(驚)、中から出てこられた職員さんに見学をお願いしたら、いきなりはダメとのことでした。まあ当然よね。公開している時期もあるそうなんで、全く見れないという訳ではないみたいです。
いやー、でもこんなトコに宮内庁管轄の施設があるとは知りませんでした。

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越谷春日部バイパス高架をくぐります。

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基本こんな広い道をひたすら歩きます。ほんっと眠くなるよね・・・。

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戸井川を渡り、春日部市に入ります。
この川は新方川といい、元は千間堀と呼ばれていました。

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さらに進んで備後の一里塚跡です。
江戸日本橋より8里目です。

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ひたすら歩いてようやく粕壁宿に入りました!
こちらは宿場の入口にある八坂神社です。江戸時代には牛頭天王社と呼ばれまして、宿の市神として信仰されたそうです。

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そして道の左側にあります東陽寺です。
なんと芭蕉がこのお寺に泊まったという説があるそうです。

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と、いうことで本堂の横にある伝芭蕉宿泊の寺碑です。曾良日記からの引用で、「廿七日夜カスカベニ泊ル江戸ヨリ九里余」とあります。
最初芭蕉の奥の細道からかと思ったけど、違ったのね。

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粕壁宿のメインストリートに出ます。白い碑のある辺りが脇本陣跡です。
幕末には本陣となり、明治天皇昼食所となったそうです。

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こちらは本陣跡です。宝暦4年(1754)まで勤めていたとのことです。

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道標があります。
天保5年(1834)建立のもので、「西南いハつき 東江戸」とあります。

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今回のウォークはここで終了。
近くの中華料理屋さんで酢豚をいただき(実は1日めの晩にも豚の黒酢あんを食べた・・・。何でかカブる(苦笑)。)、東武スカイツリーラインの春日部駅に向かいます。

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こちらは駅前。

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春日部は「クレヨンしんちゃん」で有名ってことを今回初めて知りました。
あんまり大々的にはやってない気はしますが・・・。
ということで、次回は3月です。また楽しく歩けますように!
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2020年02月13日

日光街道を歩く 第1回・日本橋〜粕壁宿<その3>

(その2からの続きです。)

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お昼ご飯を食べてからウォーク再開です。
こちらは源兵衛せんべいという草加せんべいのお店です。
こちらのおせんべいをツアー参加のお土産にいただきました。しかも10枚も!太っ腹〜(拍手)。
すごく素朴な味で、それほど固すぎず、とても美味しかったです♡やっぱりシンプルな醤油味がいいね。
他にも何軒か草加せんべいのお店が並んでました。

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続きまして、こちら神明宮です。
草加宿の総鎮守で市神社でした。六斎市が立っていたそうです。
ちなみに当初は千住ー越ヶ谷間は草深く沼地も多いため、東へ大きく迂回していました。それを豪商と村人が2つの宿を直線でつなぐ新道を作って幕府の許可を得て宿場を作った、それが草加宿です。

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さらに進みまして、河合曾良像があります。
河合曾良は松尾芭蕉の門人で、元禄2年(1689)からの奥の細道の旅に随伴、曾良日記を記しています。

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伝右川を渡った先には・・・。

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松尾芭蕉像があります。先の河合曾良像と対になっているとのことです。
この「奥の細道」は草加から日光、白河の関から松島、平泉、象潟、出雲崎、金沢、敦賀と東北・北陸の名所旧跡をめぐり、美濃大垣に至る600里(2400Km)、150日間の壮大なものでした。
その奥の細道によると、芭蕉は荷物の重さに苦しみながら草加宿にたどり着いたらしいです。

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この芭蕉像がある場所は札場河岸公園で、草加松原南端にある、かつての「河岸」の面影を再現する公園となっています。
写真に写っているのは高浜虚子句碑で「順礼や草加あたりと帰る雁」とあります。彼は師匠の正岡子規と草加を訪れたこともあるそうですよー。

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いよいよ今回のウォークのメインともいえる草加松原を歩きます。
まずは矢立橋です。橋名は「行く春や鳥啼き魚の目は泪、これを矢立の初めてとして・・・」にちなんで名付けられました。
平成6年の建設ですので、意外にも最近ですね。

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矢立橋の上から見た景色です。
これはすごいね〜。感動!

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こんなカンジの景色が続きます。約⒈5Km、600を超える松並木で、国指定名勝となっています。
江戸時代は「千本松原」と呼ばれていたそうです。

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松並木と言えば京都の天橋立を思い出す私でした・・・。何となく似てる気がするんですよねー。

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途中に名勝碑があります。ドナルド・キーンさんの揮毫で「名勝 おくのほそ道の風景地 草加松原」となってます。

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次に見えている橋は百代橋です。こちらの橋名は「おくのほそ道」の「月日は百代の過客にして・・・」にちなんで名付けられました。このフレーズ、学生時代に覚えさせられた気がする〜(苦笑)。
結局この橋自体は渡らずに、草加市文化会館伝統産業展示室に寄りました。が、何か工事中やったみたいでお店はやってなかったです。残念。

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再び松並木に戻りまして歩きます。そろそろ終盤です。

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草加松原歩ききりました!こちらは北端です。
丸いモニュメントがあります。

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橋を渡って対岸に移ります。

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綾瀬川に沿って歩いて行きます。

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藤助河岸跡です。
綾瀬川の舟運はとても盛んで、年貢米や商品荷の輸送が集中していたそうです。
この河岸場は昭和初期まで利用されていたというから驚き。
今のこの静けさからは考えられないですね〜。

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さらに進みます。

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蒲生の一里塚跡です。
隣にあるお宮は愛宕神社です。
埼玉県内日光街道筋に現存する唯一の一里塚らしいんですけど、実際どれなんかちょっと良く分からなかったです(汗)。
でも普通一里塚って明らかに「これ」って分かるもんなんですけどね〜。うーむ。

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清蔵院の山門です。
寛永15年(1638)、関西の工匠による建立です。伝説では左甚五郎の作で、欄間に掲げられている龍の彫刻が夜な夜な山門を抜け出して畑を荒らしたことから、金網で囲ったということです。

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今もこんな感じでしっかり囲われております。
実際この山門を作った人は日光東照宮造営に動員された工匠の1人ではないかといわれています。
当時の最先端の技術を持った人が集められていたんでしょうね〜。

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JR南越谷駅です。まだゴールまでもう少しあります。

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照蓮院です。ここの墓所には「千徳丸供養五輪塔」があります。
千徳丸は武田勝頼の遺児で、家臣が瓦曽根村に連れていって潜居していたのですが、間もなく早世してしまって、こちらでその菩提を弔ったそうです。

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本堂はこちら。
墓所の五輪塔は思ったより小さくてひっそりしたカンジでした。

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交通量の多い道路脇を歩きます。

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越ヶ谷宿に入りました!
えー、越ヶ谷宿は元荒川南岸に造成された本町、中町、新町の三町で構成されていましたが、後に助郷だった北岸の大沢町も含まれました。
このピンクの建物は昭和初期の建物で現在も現役です。
これは独特で目を引きますねー。

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こちらははかり屋さん。秤(はかり)商の大野家が明治38(1905)に建てた邸宅で、現在は複合施設になってます。

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大沢橋手前です。
ここを渡らずに右に進むと越ヶ谷御殿跡になります。
徳川家康、秀忠が鷹狩りの際に宿泊した御殿があったところです。

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今回はそのまま直進して大沢橋を渡ります。この川は元荒川です。
この先の区画に本陣や脇本陣があります。

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本陣は「きどころパン」の場所にありました。
奇跡的に写ってた!我ながらすごい(笑)。

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大沢総鎮守、香取神社です。

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本殿は明治時代の再建ですが、奥殿は慶応2年(1866)の建造であるとのこと。

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こちらはその奥殿になります。この彫刻は凄いですね〜。

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紺屋の労働作業の様子も刻まれていて、生き生きしてます。
いやー見事としか言いようがないです。

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この日のウォークはこれで終了で、近くにある東武スカイツリーライン北越谷駅から北千住のホテルまで戻りました。(連泊やったんでね。)
せっかく20Km超歩いたのに全部元に戻るみたいな感じで複雑でしたけどね・・・。
まあでも駅にして13駅分の距離ですから相当頑張りましたよね!(自画自賛(笑)。)

(その4に続きます。)
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2020年02月11日

日光街道を歩く 第1回・日本橋〜粕壁宿<その2>

(その1からの続きです。)

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2日めはホテルから直にスタートです。
泊まったホテルが千住宿の中にあるんだから当然なんですが、どうもその前の晩の地震の影響で電車が動いてなかったらしいので、正直助かりましたね。

千住宿は所々に古い町屋があるなあという印象です。上の写真は横山家住宅です。
横山家は屋号を「松屋」といい、再生紙を取り扱う地漉紙問屋でした。伝馬役を務めていたので、「伝馬屋敷」と呼ばれていたそうです。
(ちなみに伝馬とは、人や物資の輸送のために各宿場に馬を負担させた制度のことです。)

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こちらは槍かけだんごのお店です。
この日のウォークが終わった後に買いに行って、みたらしとあんこのお団子を1本づつ食べたんやけど、これが超絶美味しかった!!
わざわざみたらしの方は炭火で焼いてくれて、ほんのり温かく、お餅がとろける感じでもう悶絶もの♡
あんこの方もそんなに甘すぎず、お餅とすごく合っててホントに美味しかった!しかもこのクオリティで1本100円って凄すぎよ!いやー、また食べたいです。

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槍かけだんごの食レポで終わってはいけないので(苦笑)、続きます。こちら道標です。
旧水戸街道への追分道標で「東へ旧水戸佐倉道」「北へ旧日光道中」とあります。関西人の私にはどうも地理的にピンときませんね〜(汗)。

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名倉医院です。見るからに古そうな感じ・・・。
「骨つぎといえば名倉」というほど有名やったらしいです。
現在も整形外科なのは必然でしょうね。

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で、こちらも道標。「右 旧下妻道」「左 旧日光道中」とあります。

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そして千住大橋を渡ります。
この川は荒川です。

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奥に富士山がくっきり見えます。いや〜ここからでも見えるもんなんですねえ。
こうなってくると手前のビルが超邪魔ですね(苦笑)。

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対岸の土手を歩きます。

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こっちからも大きく富士山が見えます。
やっぱ富士山を見ると気持ち高揚しますね!

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さらに進んで国土安穏寺です。将軍家御成寺とも表札(?)が上がってました。
江戸時代に徳川秀忠と徳川家光が鷹狩りや日光社参の際に安穏寺を訪れていて、その御膳所となっていたらしいです。その後徳川家の祈願所と位牌安置所になり、葵紋の使用が許されました。
写真は仁王門ですけど、しっかり葵紋が使われています。裏にはでっかい草鞋が掛かっていました。

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こちらは本堂。

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本堂前には徳川家光御手植え松もあります。

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さらに進みまして、水神橋を渡ります。川は毛長川。
この橋を渡ると埼玉県草加市になります。埼玉入りました〜☆

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東武スカイツリーライン八塚駅前です。ここで少し休憩。
八塚の地名の起こりについては低湿地の塚(古墳など)に由来する説が通説になってるらしいです。
しかし日が当たっているところは暖かいけど、陰になってるところは寒いですね。この日は風も強かったです。

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そして火あぶり地蔵尊です。なんかぶっそうな名前ですが、こちらは奉公中の娘に母危篤の知らせが届き、主人に暇を願い出るものの許されず、主人の家が火事になれば仕事が休みになり家に帰れると思い放火してしまい、「火あぶりの刑」となってしまったのを村人が憐み、供養のためにお地蔵様を祀ったそうです。

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今様草加宿碑です。江戸から2番めの宿場、草加宿に入ります。
草加といえば草加せんべいしか連想できない私です・・・。
ちなみに左の道を行きます。

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普通に街中です。

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古そうな建物もあるなあと思ってたら、こちらは藤城家という明治時代の建物で、町屋建築として貴重なものなんだとか。
私の嗅覚も多少は磨かれてきたかな(?!)。

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こちらは草加市立歴史民俗資料館(旧草加小学校西校舎)です。
元小学校なんでどこか懐かしい雰囲気でした。
でも靴を脱いで入らないといけないのは私にとってはちと面倒なんですよね〜。一々靴紐結び直さないといけないタイプの靴なんで。

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そして清水本陣跡です。
ここの本陣は宝暦年間から明治初期まで使われていたそうで、米沢藩の上杉治憲(鷹山)らが休泊した記録があります。
ちなみに宝暦年間以前は近くの大川本陣が使われていて、その碑もあるのですが完全に見逃しました(涙)。
あと愚痴ついでに言うと、この黒光りする碑は正直好きじゃないです。写真を撮るとすんごい別のものが写り込むんですよねー。下手すると自分も写る(汗)。撮る角度を考えないといけないのが大変なんです。

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と、いうことでこの辺りの近くのお店でお昼をいただきました。
天ぷらとお刺身と・・・結構ボリュームあったんですけど、完食しました☆

(その3に続きます。)
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2020年02月09日

日光街道を歩く 第1回・日本橋〜粕壁宿<その1>

日光街道を歩く 第1回・日本橋〜粕壁宿<その1>

開催日:令和2年1月31日(金)〜2月2日(日)

昨年の12月に甲州街道を下諏訪から日本橋までめでたく完歩できまして(祝)、引き続きのノリで(笑)日光街道を歩くことにしました☆
今回は日本橋から粕壁宿までです。
何はともあれ、3日間とも天気が良くて何よりでした。

さて日光街道ですが、呼び方に変遷がありまして、最初は日光海道といわれ、後に海端の道ではないとの理由から日光道中と呼ばれるようになり、明治になって日光街道と改名されました。明治政府、幕府に張り合い過ぎじゃね?とも思ったりしますが、一応私も明治政府に合わせておきます(苦笑)。
また江戸時代は3泊4日で日光まで行けたらしいです。どうやって徒歩で行くんかと思いますが、昔の人の足はほんますごいよね〜。
日光街道は松尾芭蕉の「奥の細道」ルートにもかぶってまして、芭蕉関連のものも結構ありました。が、道自体が江戸時代にできたもので比較的新しいので、中山道とかに比べるとあまり道中に見どころがない(涙)。しかも関東平野なんで道が平坦。これはね・・・実に眠くなります。

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ということで、先月も来た日本橋からスタートです。
ずっとここがゴールやったから、ここからスタートってのが何か変な感じ。

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日本橋のたもとにある日本橋魚河岸跡です。
日本国道路元標の向かいですね。関東大震災後に築地に移っています。今は豊洲ですね。

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中山道側の道を行きます。三越本店が懐かしい・・・相変わらず大きいわー。
途中で右折して中山道とは分かれます。

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江戸伝馬町牢屋敷跡です。現在は十思公園として整備されています。
写真は公園奥にある松陰先生終焉之地碑です。
以前スタンプラリーでここに来たことがあって特に目新しいものはなかったんですが、ここでウォーキングリーダーさんが松陰先生の辞世の句を吟じて下さいまして、和歌も吟じるんやと初めて知りました。
松陰先生の辞世の句はこちら。
「身はたとひ 武蔵の野邊に朽ちぬとも とどめおかまし 大和だましい」
いやでもこんな形で吟じてくれて、きっと松陰先生も喜んでるんちゃうかな〜。

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向かいの大楽寺が江戸伝馬町処刑場跡でした。
うーん、やっぱりねー、どうも雰囲気が微妙なんですよね・・・。

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さらに進みます。
スカイツリーが正面に見えます。この街道、スカイツリー出現率高いです。

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浅草橋を渡ります。

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この川は神田川です。歌にもありますけど、現物こんなんかーって思いました。何やごちゃごちゃしたカンジですね。屋形船が結構並んでます。

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そして浅草見附跡です。ちなみに見附とは見張り所のことです。
ここに築かれた江戸城外の城門は「浅草御門」と呼ばれたらしいです。

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駒形どぜうです。昔っぽいなーと思って見てましたが、実際創業享和元年(1801)のどじょう料理の老舗でした。文化3年(1806)の大火後にそれまでの「どぢやう」の4文字では縁起が悪いということで「どぜう」の3文字に改称したそうです。
どじょう料理と言えば島根の安来が有名ですけど、お江戸にもあるんですね〜。値段高そうですけどね、どうでしょう。

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しかし東京スカイツリーが本当に良く見えます。

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浅草寺駒形堂です。
浅草寺自体は行きますけど、ここまではよっぽどでないと来ないですね。さすがにがらんとしてました。
浅草寺ご本尊の聖観世音菩薩さまが隅田川よりご示現され、初めて奉安された地に建つお堂です。
実は結構重要ですよね。
現在はここのお堂のご本尊は馬頭観音さまとのことです。

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で、こちらは境内にある浅草観音戒殺碑です。
この地が聖観世音菩薩さまが隅田川より発見された霊地であることから、元禄5年(1692)、当地を魚鳥殺生禁断の地とする法度が出され、それを記念して翌年に戒殺碑が建てられたそうです。
現在の碑は昭和2年(1927)に土中より発見され、昭和8年に修補されたものとのことです。まーでもかなり痛々しい感じです。

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そして浅草寺です。もうかれこれ20年ぶりでしょうかね〜。
コロナウィルスのせいで観光客少ないと思いきや、「めっちゃ人おるやん!」
チャイニーズも相当いてたし、あと修学旅行生も多かった。
なんで、本堂のお詣りは諦めたわ。人多すぎて。でもこれコロナ無かったら仲見世なんて歩けないんちゃうやろか・・・。

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でも境内もちょっと端の方に行くと空いてんだよね。
こちらは旧仁王門礎石です。いや〜これ見るだけで、どんだけ大きいんやろうって思いますけどね。
慶安2年(1649)に旧本堂と共に三代将軍徳川家光公により再建落慶した旧仁王門は300年間浅草寺の山門としてありましたが、昭和20年(1945)の東京大空襲により焼失してしまいました。ホント残念でなりません。

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そして旧五重塔跡です。こちらも慶安元年(1648)に徳川家光が再建されたもので、現在の五重塔とは反対側に建てられていました。
江戸時代には上野の寛永寺、谷中の天王寺、芝の増上寺の塔とともに「江戸四塔」として親しまれていたそうです。
こちらも昭和20年(1945)の戦災で焼失しております。

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ま、そんな訳で浅草寺のお詣りは諦めたんですけど、近くに浅草神社がありまして、こちらはなぜか閑散としてましたのでお詣りさせていただきました。
写真は本殿です。社殿は慶安2年(1649)に徳川家光により再建されたもので、江戸時代初期の代表的権現造として評価が高く、国の重要文化財に指定されているとのことです。

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さらに進みまして、待乳山聖天です。浅草寺の支院の1つとは後で知りました。
商売繁盛、夫婦和合にご利益があり、「聖天は娘の拝む神でなし」といわれたそうです。
ま、でも訪れたとき先客の若い女性が拝んでたんで、今はいいのか、な?

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こちら本堂ですけど、上の大根の装飾が何だかあやしい・・・さすが夫婦和合。

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えー、さらに進みまして、こちらは今戸神社にある沖田総司終焉之地碑です。
幕末はここに御典医松本良順が居住していて沖田総司の看病をしていたそうです。
いやー、これは知らなかったわー(驚)。お墓には行ったことありますけど、終焉之地がこことは・・・。

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泪橋です。
この先に小塚原刑場があるんですが、そこに引き立てられる罪人と身内の者がここで泪の別れをしたことからこの名がついているそうです。
そしてここから荒川区に入ります。

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素盞雄神社です。
小塚原・三の輪・下谷通新町・三河島・町屋など最も広い地域を氏子圏とする鎮守で「てんのうさま」とも呼ばれています。
丁度小学生の下校時間やったようで、元気に小学生たちがこの境内の中に走って行きました。

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こちらは本殿です。
実はここ千住なんですけど、松尾芭蕉の奥の細道では最初深川を出て、舟で千住に着いたそうです。ですが、その着いた場所が千住の大橋手前の南詰か向こうの北詰かで論争があるらしいです。矢立初めの地として、どっちも譲れないところだそうですよ。

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中央にある絵馬が掛かっている大木が天王社の大銀杏です。
この木の皮を煎じて飲むと乳の出が良くなるという伝承があるらしいです。

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いよいよ千住大橋です。
千住大橋は文禄3年(1594)に徳川家康が江戸に入った後、隅田川に初めて架けた橋とのことです。

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現在の橋は関東大震災後に架けられたものですが、めっちゃデカい橋ですね〜。

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橋の北側にはおくのほそ道旅立ちの地の絵が描かれています。
橋を渡った先には奥の細道矢立初めの地の碑もあります。
また葛飾北斎の富嶽三十六景で千住地域を題材にした作品が3枚ありまして、その中の1枚「従千住花街眺望ノ不二」がこの辺りを画題の対象地としているそうです。(他の2枚は「武州千住」と「隅田川関屋の里」)

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やっと千住宿に入ってきました。日光街道初宿ですよ〜。
松尾芭蕉の像もあります。

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こんな問屋の看板があちこちに立っています。
こちらは千住葱ですね〜。

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こちらは青物問屋とあります。
ここら辺は閑静な住宅街といった感じ。

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ここにも芭蕉さんがいらっしゃいます。

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一里塚跡です。
この一里塚は町の中にあったため、一対ではなく片側だけでした。
今回のウォークで初めて一里塚跡碑を見ましたねー。
ここから先は商店街に入ります。賑やかな通りで、本陣などもこの区画内にあるんですけど、なんかよく分からなかったです。もっと注意深く見たら見つけられたと思うけど、疲れてくると散漫になってしまって駄目ですね・・・(汗)。

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で、こちらが1日めのゴール地点のホテルです。商店街の中にあり、北千住駅にもすぐ近くという立地条件抜群に良いホテルでした。内装も綺麗で私的にはすごく良かったです。
が、この日の夜中2時頃、千葉で震度4の地震があって、見事に起こされました。(しかもスマホの爆音で(泣))こちらは震度3くらいかな。横揺れがゆらーっと来てました。気持ち悪い感じ。まだまだ関東は落ち着きませんね。でも特に大きく何も無くて良かったです。

(その2に続きます。)
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2020年01月21日

熊野古道 中辺路を語り部と歩く 第12回・高原霧の里〜牛馬童子口

熊野古道 中辺路を語り部と歩く 第12回・高原霧の里〜牛馬童子口

開催日:2020年1月19日(日)

先月の第11回を天候不良でキャンセルして飛ばしたので、今回はちょっとワープした感じです(苦笑)。
この区間は2014年2月に歩いているのですが、その時とあんまり雰囲気変わってなかったですね。その当時もキツかったけど今回も結構キツかった(笑)。でも今回は山道がほとんどやったんで面白かったです♡
何より天気が良くて気温もそれほど寒くもなく、まさに絶好のウォーキング日和でした。

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今回のスタートは高原霧の里休憩所です。
めーっちゃ良い天気!

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眺めもすごくいいです☆

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ここからスタート。ゴールは道の駅熊野古道中辺路です。

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最初はこんな感じですが、すぐに地道になります。
今回はほとんどが地道です。滝尻から道の駅までが一番熊野古道らしい道とのことで、実際歩いて歩きごたえがありましたね。

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一里塚跡です。この先もう一箇所一里塚跡碑を見たのですが、撮り損ねてしまいました・・・残念。

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完全に地道やということが分かっていただけるかと思います。
右の池は高原池で、人工池だそうです。

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大門王子跡です。中世の記録には登場しない王子らしいです。

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が、現在はこんな可愛らしいお社が建っております。中にはお雛様がいらっしゃってびっくり!

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重點(十丈)王子跡です。
十丈峠にある王子社で、この峠には茶店などを含む数件の民家があったそうです。

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まだまだ道は続きます。

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悪四郎屋敷跡です。
「悪」は悪者のことではなく、勇猛で強いという意味らしいです。
背後の山が悪四郎山(782m)になります。

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上多和茶屋跡です。標高約600mになります。
後ろの平たいところにお茶屋さんがあったそうです。

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分岐なんですけど、上が三体月鑑賞地、下が大坂本王子への道になります。
三体月伝説とこの場所はすごく見覚えありますね〜。

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一瞬アスファルト道に出ますけど、またすぐ山道に入ります。

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少し石畳の区間があります。正直歩きにくい・・(汗)。

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大坂本王子跡です。
大坂(逢坂峠)の麓にあることから、この王子社名がついたんだとか。

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碑の近くにある石造の笠塔婆です。すごく貴重なものらしいです。

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こちらはシシガキです。猪除けの石垣なんですけど高さがそんなに高くないんです。でも猪やったら大丈夫なんだそうです。

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道の駅到着です。
おー、めっちゃ懐かしい・・・。ここは以前歩いた時によく中継地点として寄ってたんですよね〜。

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敷地内には牛馬童子像のレプリカもあります。
現物はもっと小さいですけどね。
posted by 花衣 悠希 at 22:31| Comment(0) | 熊野古道ウォーク | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年01月18日

本「「忠臣蔵」の決算書」

「「忠臣蔵」の決算書」
 著者 :山本 博文
 発行日:2012年11月20日
 発行所:株式会社 新潮社

昨年に見た映画「決算!忠臣蔵」の原作本です。ようやく図書館から借りることができたので(予約多し!)早速読んで見ました。
実はもう書かれて8年になろうかという本ということにびっくりしました。でもって、この内容からよくあの映画が出来たなあ、と感心してしまいました。
もう私の中ではあの役者さんたちのイメージしかないんですけどね・・・(苦笑)。
この本によると、軍資金は藩の「余り金」と瑤泉院の「化粧料」。化粧料は全部ではなくて一部やったようですけど、「利銀」は全部使っちゃったみたいですね。
討ち入りに積極的やった者に新参家臣が目立つらしく、その筆頭が堀部安兵衛とのことです。堀部安兵衛は越後の新発田出身で高田馬場の仇討ちで評判になり、請われて赤穂藩の江戸留守居役だった堀部弥兵衛の娘婿になった人物です。私、以前新潟の新発田に行ったことありますけど、新発田ではめちゃ安兵衛推しでしたからね〜。旗とか碑とかすごかった。時代が変われば評価はひっくり返ることもあるってことやけど、まあホント分かんないもんですね。
それと討ち入りした藩士の年齢に60代が結構いて、へーって思いました。これって戦のようなもんじゃないですか?60代で戦に出るとかアリなんや。凄いな〜。
あと矢頭長助がこの本では討ち入り前に病死とあったんで、映画の想像力ってすごいなーって改めて思った次第です(苦笑)。(映画では内蔵助の身代わりになってしまいましたので。)
posted by 花衣 悠希 at 21:18| Comment(0) | 本・雑誌等 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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